ゆかし あたらし

いろいろ書きます。穂乃果ちゃんが好きです。

ポジティブな成熟拒否としてのプリパラ

かれらは本当に自分のものを感じ、考える能力をもっている。この自発性はかれらが話したり考えたりすることのうちに、またかれらの顔に表現される感情のうちにみられる。もし大部分のひとを引きつける子どもの魅力がなんであるか問うならば、センチメンタルな月並みの理由は別として、私はまさにこの自発性にちがいないと思う。

Erich Fromm 『自由からの逃走』 (東京創元社) 日高六郎訳 1951年

 

 

突然ですが、大人になるとはどういうことでしょう。周りと合わせる事を覚える事でしょうか。性格を悪さを矯正することでしょうか。それともバカバカしい理想論を追うことを辞める事でしょうか。求められる社会規範に従って自分をおさえつける事でしょうか。今回は成人という概念がどうしてプリパラに合わないかを考えていきたいと思います。

 

まず、プリパラのテーマはなんでしょう。いろいろあるでしょうが、「あるがままの姿の肯定」というのがその中で大きなウェイトを占めているでしょう。実際に1話でみれぃがらぁらに「思いっきり歌うぷり。ここでは全ての女の子にそれが許されているぷり。」と言ったように、たびたび「あるがまま」を肯定するようなセリフが出てきます。そして極めつけはプリパラ74話でのレオナのセリフです。どうして女の子の格好をするのかと聞かれたレオナが「あるがままです。」と答えます。ジェンダー規範をもろともせずに自分のあるがままを貫くこのセリフ。そしてこれが意識されて作られた物であるというのは次の森脇監督のツイートから見て取る事ができます。

「あるがまま」を貫く事を一番阻害する要素はなんでしょう。それはまさに「成熟」なのです。子どもの頃は誰だってあるがままに生きてきました。しかし教育を経て「成熟」という錦の御旗により「あるがまま」は潰されてきたのです。そして社会は「成熟」を拒否した人たちを頭のおかしい人のように扱います。そんな現状に一石投じるアニメがプリパラなのです。