ゆかし あたらし

いろいろ書きます。穂乃果ちゃんが好きです。

ラカン理論を用いた『一番好きだとみんなに言っていた小説のタイトルが思い出せない』(日向坂46 作詞秋元康)の考察

 この曲は秋元康プロデュースのアイドルグループ、日向坂46の楽曲の一つである。今回はこの曲についてラカンの理論を使って考察していきたいと思う。

 まずこの曲で一番のキーワードとなるのが「一番好きだとみんなに言っていた小説のタイトル」だ。長いから以下「小説のタイトル」とする。サビ以外は思春期特有とも言えるような心情の発露が基本的な歌詞であるが、サビになると突然小説の話になる。このある意味難解な歌を読解するヒントは独白部分とブリッジ部分にあたる次の部分だ。

 表紙のデザインもそこに書いてある字体も覚えているのに、小説のタイトルが思い出せない。どうしても気持ち悪くて実家の僕の部屋の本棚も机の上も押入も探したのにそんな小説はどこにもなかった

 それは初めからあったのかな 想像の中の記憶じゃないか どこかで勝手に作り上げて大事にしてきた理想の僕だ

 

  ここで「小説」というのは「理想の僕」である事が明示されている。また、「小説のタイトル」の特徴として字体を覚えているのに思い出せない、探しても見つからないという特徴がある。

  これらはラカン理論でいう対象aの特徴と一致している。対象aは言葉じゃ決して捉えられない物であり追い求めれば追い求める程こぼれていく物であるし、なによりその人の理想の人間という物の中に潜んでいる物だ。ここで、小説のタイトル=対象a=理想の自分という観点からこの曲を最初から見ていこうと思う。

 僕がなりたい僕を追いかけても腕をするりとすり抜けてどこか知らない場所へ消えてく

 ここは対象aの捉えられなさを示している。

 理想なんて非現実的な夢物語じゃないか ただの口当たりのいい諦めさせないための人参だろ?

  対象aというのは様々な欲望の中心にあることが多いし、欲望のエンジンであるとも言えるからここも対象aの説明を示している。

遺伝子組み換えされたそんな欲望の出口 忘却しかないんだ

  遺伝子組み換えされたと受動態を使っているところがここで注目したい。ラカンの理論においては欲望は他者からやってくる。まさにこれはそれをうまく示す理論である。また忘却というモチーフも精神分析的に掘り下げられそうだがここでは私の実力不足のためにここでは触れないでおく。

  知らぬ間にあきらめることだけが上手になって来た気がする 大人になるっていうのはそういうことだってわかった 覚えなくていいことばかり頭に満タンなんだ

   ここでは特にラカン的な解釈をつける要素はない。ただこの歌全体を貫く思春期の憂鬱みたいなのがうまく描かれてる。またこの次のサビの部分はスキップする。

  人間はなりたい自分になれないから思い悩んで苛立って妥協しながら見栄を張るんだ

  “本当”なんて自己申告には説得力がないね 他人から見える僕がどう思われたいかの口実さ 印象操作するように知的でスタイリッシュなイメージが欲しいんだ

    自己申告には説得力がないというのはラカンが指摘している自己言及のパラドクスによる自我の把握の不可能性だ。他人から見える僕のイメージを重要視するのは鏡像理論において他者を見る事によって自分を把握することから来ている。つまり自分を見る目は他者を見る目と変わらないのだ。なお次の部分とその後のサビはラカン理論で説明することがないのでここではスキップする。

  

 では、この曲全体をラカン理論で見た時には何が言えるのだろうか。

 まずこの曲は思春期特有の心の葛藤を歌った曲だ。大人にならないといけないが本当に大人になることは正しいのか、そういう葛藤を歌った曲だ。私はここにエディプスコンプレックスの再現を見る。大人になれという圧力―父の名の法―の下で現実が揺らいでいるときに対象aがそこで出てくる。最初は父の名の法に抵抗しようとするが、それはうまくいかず最終的には父の名の法を受け入れるー去勢されるーことで大人になる。フロイトが重要視していたトーテムとタブーの話に近い構造が思春期特有の心理の中には隠れている。この曲はそれを指摘する曲であると私は考える。