来たるべき民主主義にいかに動物を参画させるか ー パトリック・ロレッド『ジャック・デリダ 動物性の政治と倫理』読書メモ
1.はじめに
長らく積んでた本ですか最近デリダの入門書を読んだのでまた読み進める事に。デリダの基礎知識なしで読んでた昔の時代がいかに無謀だったのかと思いながら、それでもちんぷんかんぷんになりながら読み進めました。この本で書かれてるのはデリダは動物をどう扱うべきかという問題についてどのように考えていたのかの概説です。薄い本ですが日本語の書籍*1ではデリダの動物=政治を扱った本を他にないようなので興味ある人はこちらから。それでは簡単に内容紹介。
2.動物=政治
まずデリダの動物に関する話で一番基本となる動物=政治概念についてです。終わりの方にある解説では次のように触れられています。
すなわち、人間に固有なものが存在するのは、きわめて拡大された意味での理性概念においてさえ、理性的ではなく、そうありうることもなく、また政治的ではなく、そうありうることもない動物との対立において、人間が理性と言葉を備えた政治的な人間であるかぎりにおいてである。
(P.128)
つまり、人間は理性的ではない獣を対比の関係に置くことにより自分たちが理性的な存在であることを担保してるという考え方です。この考え方は全ての近代国家の根底にあるものだと指摘しています。
しかし、このような仕組みは果たして正しいと言えるのでしょうか?
それがこの本の肝になる部分です。
3.肉食-ファロス-ロゴス中心主義
デリダはこのような一般的に優越のついた二項対立について、劣ってる側には優れた側特有の部分があるし優れた側にも劣った側特有の部分があるという事を指摘する事でそのような二項対立に揺さぶりをかけようとする思想家でした。そして後年のデリダがそのメインターゲットに選んだのがまさにこの動物=政治概念でした。
その動物=政治概念によって引き起こされる肉食*2という動物たちへの暴力を、他の二つの二項対立における問題と同じような構造の物と根源的に同じ問題なのではないかということを考えるために作り出された概念がこの肉食-ファロス-ロゴス中心主義です。
この二つの概念*3いずれかもが再示しているのは、西洋が話し言葉(パロール)と理性に絶対的な特権を付与してきたということである。
(P.21)
またこの二つの二項対立の問題の根底にあるものとして指摘されてるのが男性的な権力です。
西洋において政治権力は男性の人間において具現化されてきた
(P.21)
そして、その権力が理性的でも言葉が喋れるわけでもない動物に向かうというわけです。
この権力は、供儀に書されるべき生きものとしての動物を標的とする肉食的供犠という手段を介してのみ行使される。
(P.21)
つまり、ここで指摘されてる事はそのような男性的権力は自分たちの優位を示すために必然的に肉食的供犠ーつまり動物への暴力ーに向かうという事です。ここがフェミニズムと動物倫理の奇妙な関係性の一因になってるのかなと僕は思います。
3.主権の脱構築可能性
しかし、本当にそのような動物と比べた時の人間の優位性などという物は硬固した物として存在するのでしょうか。この本の中盤では脱構築という手段を使ってそこに切り込んでいきます。それを考える上でデリダは動物的な物の代表として獣、人間的な物の代表として主権者を想定します。
動物的主権の哲学とはおそらく、本質的に、政治における動物性の哲学であると考えることができ、そこでは政治が動物に対して何をなしているのかーそれが現実的な動物であろうと、寓話的な動物であろうとーが主に問題となっている。(中略)なぜつねに西欧哲学は政治的なものを、動物に両義的な地位を与える問題系に組み込むことによって思考してきたのか、そして同時に、なぜ西欧哲学は政治的なものを人間に固有なものとしようとしてきたのか
(P.59-60)
両義的な地位というのはデリダの脱構築のキーとしてよく使われるパルマコン(毒にも薬にもなるもの)という概念を指しています。ここでデリダが言いたい事は獣という主権者の反対として通常は想定されてる物がなぜ主権のアナロジーとしてよく使われるかー高校の教科書レベルの話でいうとポップズの『リヴァイアサン』などが有名だと思いますーということです。
これこそが動物に比べた人間の優位性を崩すために、そうしてそのような事を指示する考え方が広まったのかを探る大きな鍵となるのです。つまり、主権という動物に対して優位だと考えられてる人間を代表するような概念の中心には実はそれと対にして考えられてる獣の性質が込められており、その「恒常的なウイルスの脅威」のためにこのような動物を劣ったものとして置くような価値観を西欧社会は発展させたとデリダは指摘します。
この政治的パルマコロジーは、同時に、あらゆる携帯における動物性に対する支配と、動物性との同一化によって成り立っている。
(P.65)
4.触覚中心主義
そして人間だけに開かれたわけではない新たな共同体を模索するためにデリダが重要視したのが触覚です。さらに触覚についてもパルマコン的な存在としてその両義性を考察していきます。
まずデリダが触れられるのは触覚が人間と動物を分かつ法として働くことです。
触覚中心主義はまさに人間に付与された特権でありー人間は治世の器官たる手のおかげで優越性を保持しているとされる
(P.96)
つまり、ここでデリダは触覚中心主義というのは先ほど出てきた人間を中心とした考え方の亜種であると指摘しています。しかし、その脱構築の先にはそれとは違う触覚中心主義の姿も見えてきます。
触れられた動物は 同時に主体でも客体でも、「誰」でも「何」でもある。
(P.99)
つまり触れてるという状態はどちらが触れているか触れられているかそういう区別を無効にする効果があるという事です。デリダはここに触覚の可能性を指摘したのです*4。
5.おわりに
はじめにも述べましたが薄いですけど、扱われてる内容は非常に豊かで面白いです。薄くないと言おうとしましたが、現代思想の本なのでどうしても人によっては薄さを感じてしまうと思います。ぼくはデリダしか触れてませんが、デリダの思想はあくまで批判理論であって、ある意味では何も言っていません。しかしそれでもこの理論は重要なものだと僕は考えます。
来たるべき民主主義*5、それがどのように動物に開かれてるのか、それはいまの僕には想像すら出来ませんがいつかそんな日が来ることを思うと非常にワクワクする。そんなことをこの本を読みながら感じていました。