ゆかし あたらし

いろいろ書きます。穂乃果ちゃんが好きです。

橘ありすと近代の夢

どこかで憧れは理解とは一番遠い感情と聞いた事があります。まああながち間違いではないでしょう。みなさんの多くももこの言葉を聞いたときにそう感じると思います。

今日は自分の憧れについての話をしたいと思います。この記事はやっきゅん氏主催の「たんあいがたり」というアドカレの一環として書かれています。もしこれがキャラクターの正確な解釈の議論をする場所であったら自分がこのアイドルで書くのはあんまり良くないかもしれません。しかし幸いこの企画は正しい正しくないよりただただ自分の「好き」を語る企画と聞いています。良い機会なのでこうやって文章として吐き出す事によって自分の中でも橘ありすという存在を振り返ってみたいと思います。

なお、本当は橘ありすについての文章についても最初は論理展開がキッチリしてて過不足のなく分かりやすい橘ありすっぽい文章にしようと思っていましたが、プロット書いただけでそれ以上は進められなかったので断念しました。あくまで橘ありすは憧れの人であって自分ではないので無理みたいですね。この記事はいつもの自分の文章らしく余分な部分があまりに多すぎて議論が二転三転して何を言ってるのかよく分からない文章になると思いますが最後まで読んでくれたら幸いです。

 

まず橘ありすを一言で表すとしたら自分が選ぶ言葉は「近代の夢」です。ここからは前置きですので面倒くさい話やアイマスと直接関係のない話がきらいな人は飛ばしてください。近代というのはどういう時代か、それどころか具体的にどの時間帯を指すのか、それには色々な意見があるでしょう。僕は歴史学の専門家でも高等教育を受けたわけでもないただのおたくなので厳密な事は言えませんが、ここでは具体的に近代がどの時間帯かというのを抜きにして、まず自分が近代の価値観だと考えている事について見ていきたいと思います。それが合理主義と個人主義自由主義です。この時代に起きた様々な事の中でこの3つの考え方がどういう意味を持っているのでしょう?まず1つめの合理主義です。これをもたらしたものは様々ありますがその象徴がまさにニュートン力学(古典力学)の大戦果でした。実験と論理を使った科学的方法論は様々な分野で人類に正確な「予測」をもたらす可能性を与えました。これを世界の理解について大きな革命を与えました。神的な存在を使わなくても*1未来を予測することが可能になったのです。これがもたらした物が合理主義です。つまりこの世界は因果関係において成り立っているため未来を適切に予測してそこから逆算して因を求める事により望みの果(結果)が得られる事が可能になるという事です。これは人間が自分の力で未来を決定できるようになったという事です。人類はついに理性によって未来を支配する事ができるようになったのです。もちろん自分が分かってる範囲内でありますが、その範囲もどんどん広がっていきます。そして人間の存在の意義、これが大きくなっていった先にあるのは全ての未来を自由にコントロールできる可能性ある存在*2に対するリスペクトです。そこで出てくるのが個人主義自由主義です。合理主義を核として現代に繋がる価値観がはっきり価値のあるものとして出てきたのが近代だったのです。

 ここで話を戻しましょう。橘ありすさんのことです。そうですこれは橘ありすさんの雉です。橘ありすさんが合理主義者というのはなんとなくは皆さんも納得されるかと思いますが実はモバを少し漁るともっと露骨な証拠があったりします。例えばこんな感じのセリフがあります。

「今回のお仕事の必要性とは?」

ーN 橘ありす

 

「はぁ、はぁ……。ステップの練習は、結構ハードですね。ダンスのレッスンは、全体的にレベルが高めに設定されていませんか。私は、このレッスンの必要性がわかりません。トレーナーの方は、開始前にそのレッスンの意義について解説するべきだと思います。」

ーぷちデレラ 橘ありす

  合理性という概念は怠惰の言い訳に使われる事も多々ありますが、橘ありすさんには怠惰という言葉が似合わない事はみなさんもご存じだと思います。実はここの怠惰が似合わないというところも合理主義と関連があります。さっきも述べましたが合理主義を徹底した世界観では全ての結果の原因が本人にあります。もちろん責任も本人にあるのです。橘ありすさんはそれをよく分かっています。だからこそ橘ありすさんは怠惰を良しとしないでしょうし、それを他人にも求めています。実際に橘ありすさんは恋人に求める条件として「しっかりしてる」という条件をあげています。他人に厳しく自分にも厳しい。それが橘ありすさんなんです。

 また橘ありすさんを語る上で欠かせない要素は家族でしょう。橘ありすさんと家族の間には複雑な関係(複雑と言ってもそんな重たい物ではありませんが)があります。橘ありすさんの考え方と家族との関係性を考える上で欠かせないのはおそらく次のセリフでしょう。

「以前、親に名前の由来を聞いたんです。そうしたら、『かわいいでしょう』って。理由になっていませんよね……。母は私のことを可愛い愛玩人形としか思ってないんだって。そう思ったら、笑う気分じゃなくなってしまったんです」

ーぷちデレラ 橘ありす

 自分の経験や気持ちをこれだけ簡潔に論理整然と話せる言語能力(しかも書くじゃなくて話すですよ)にしびれてしまいますね。やっぱり頭のいいアイドルは偉いです。それはそうとこのセリフには大きなポイントがあります。自分を可愛い愛玩人形としか思ってない事に対して「笑う気分」ですらなくなってしまったのです*3。笑う気分じゃなくなるという表現は相当な失望を表す物だと僕は理解しています。橘ありすさんは自分が愛玩人形のように扱われる事に対して深く失望する人間なのです。ここで先ほど述べた要素がまた出てきます。それは個人の尊重です。人形というのは人間の所有物です。自分が誰かの所有物のように扱われるのが許せないと橘ありすさんは考えているのです。これは普遍的な感情ですが先ほどのようなやり取りからそういう要素を見抜く力はやっぱり頭がいいなと感じるのです。また、失望という言葉は望みを失う。つまり望みを持ってないと期待をしてないと生まれません。12歳ぐらいの人間の人格において親の果たす割合は決して小さくないと思います。これだけドリベラル(先ほどあげた3要素を持ってるぐらいに捉えてください)に育つには親もそれなりに進歩的な人間であることが考えられます。橘ありすさんはよりによってそんな進歩的な親にそういう事を言われるのが相当のショックだったのではないでしょうか。

 また橘ありすさんがこの道に進むにあたって親の影響というのは決して少なくありません。たとえば次のようなセリフなどがあります。

「それは……昔、もっと幼いころ、両親に歌をほめてもらったんです。上手だねって。その思い出が、忘れられなくて。だから、歌や音楽の仕事なら、親を喜ばせられるかもって、そんな理由です。」

ーぷちデレラ 橘ありす

 

「私、小さい頃両親に一度だけミュージカルに連れて行ってもらったことがあります。その内容は夢みたいなお話で、辛い状況の中で歌の力で皆を励まして乗り越えていくっていうものなんですけど……あの、私、全然泣いたり笑ったりしないタイプで、そのせいでちょっと…………色々上手くいかないこともありました。でも、私そのミュージカルを見て、その…………初めて感動のあまり泣いちゃったんです。そしたら……それを見た両親が笑ってくれて。それからです、音楽には力があるって思って。私も、誰かの心を動かせるような、そんな音楽をやってみたいって思うようになりました」

ーCINDERELLA MASTER 036 橘ありす

 優秀で仕事に熱心で忙しい両親の事を誇りに思いながらもどこか寂しさを抱えるアンビバレントな感情がここでは出ていますね。橘ありすさんは両親が好きですしおそらく尊敬もしてるでしょう。しかしそこでも一抹の寂しさを抱えて年相応に甘えたいという気持ちを心の奥底に持ってるわけです。もちろんこれは大切な事です。幼少期の愛着不足は本当に後を引きます。最近、自分は社会のアンダーグラウンドにいる人を対象としたノンフィクションをよく読むのですが、そういう人たちも元をたどれば親からの愛着が足りなかったって場合が多々あります。優秀な子供が甘え不足になる。ありがちだけど悲しい問題ですね。

 

 ここまで橘ありすさんはどういう人間なのか簡単に振り返ってきましたが、では橘ありすさんはどこに向かうべきなのでしょうか。その話をする上で先ほどの「近代の夢」という部分が大きく関わってきます。近代がさきほど述べたような時代なら現代はどんな時代でしょう。現代思想っていうジャンルはどちゃくそ難しいので*4厳密な事は言えませんが、簡単に言えば近代の一部否定です。まず大きいのは単純な因果関係の否定です。これは当たり前の話ですがある人が成功するか成功しないかにはその人の努力や準備だけではなくどうしようもない運や感情が入ってきます。仏教でいう縁というやつですね。というか本人にいかんとできる要素よりそういう要素の方が大きい場合も多いでしょう。また、合理主義の元になってる未来予測という面にも20世紀になって陰りが出てきてます。例えば一部の非線形微分方程式のように解析的に解けない例(つまり答えが正確に求められない問題です)というのは近代の段階でも発見されていましたが、その場合は近似によって近い答えを求める事が可能でした*5 。しかし20世紀になってからカオスと呼ばれる簡単に言うと近似できない物が出てきました。有名な例が二重振り子です。揺れる振り子の下に揺れる振り子をつけた場合の運動は現代科学では絶対に予測する事ができないのです。そういう自然科学の世界だけではなく社会科学の世界でも確固たる自己や人間の理性という概念に疑問符をつけるような議論が多々出てきました。当たり前ですけど僕たちは日々変わります。いろんな人と出会ったりいろんな経験をしたりして成長したり悪影響を受けたりそうやって時間はすすんでいくのです。また後者も考えて見れば当たり前ですけど人間は馬鹿です。間違った答えを導き出したり明らかな間違えに騙されたりそういう事が起きる事があることはみなさんも当たり前のように知ってるだろうし、実際に学問の世界でもそういう主張が支持されてきています。

 自分はこういう現代の考え方が橘ありすさんの進む道を考える上で大きなヒントをくれるように思えます。橘ありすさんの自分に求められる物を必死に果たそうとする部分は本当に素敵ですし自分も心から尊敬しています。しかし、もし失敗した時に全部が自分の責任だと考えてしまったら折れてしまいます。またそういう全能な合理主義(つまり結果は自分の行動で完璧にコントロールできるという考え方)は環境や運のせいで不遇な結果を得てしまった人たちに対する冷淡な態度に繋がります。橘ありすさんは目に見えたマイノリティに冷たく接する人ではありませんし頭がいいのでちゃんとそういう所まで考えられると思いますが、少し思い込みがつよいところもあるので一見でそういう人たちにつよい非難の言葉をかけてしまう事もあるでしょう。全能な自己、完全な正しさを追い求める事はとても素晴らしい事ですし橘ありすさんにそれを諦めて欲しくありません。しかし、橘ありすさんにはもうちょっとだけ広い世界を見て欲しい。橘ありすさんはいい両親に育てられたのでしょう。厳しさの中にも確かに芯のつよい優しさがあります。そういうのを自己や一見自己責任に見えるような形で酷い境遇のいる他者にも向けて欲しい。自分はつよくそう思うのです。完璧主義は悪い物ではないというか素晴らしい物です。でもそれから逸れる自己も少しは認めてあげて欲しい。そういう風に橘ありすさんにはなって欲しいとぼくは思います。

 

 話が二転三転してよく分からないけど長い意味不明な文章になってしまいました。ここまでお読みいただいてありがとうございます。

 最初にも述べましたがこの記事はやっきゅん氏主催の『たんあいがたり』というアドカレ企画の一環として書かれました。前日の記事はアンドリューさん(13)の「星井美希がすこな話 - 残念ながらお金を用意することができませんでした」です。星井さんを好きになっていく過程と魅力が簡潔にまとめられてて面白かったです。これからも肺に気をつけながら元気に過ごしてください。またこの翌日の記事はまつたけんさんで白菊ほたるさんについてです。先日初ステージを済ませていま話題の白菊ほたるさん。声がつく遙か昔からずっと担当してたまつたけんさんの愛の告白は楽しみですね。

*1:これは神的な存在を一概に否定してるわけではありません

*2:ここで注意しないといけない事はその存在の範囲というのは自明的ではないという事です。もっと具体的に言うと人権の範囲です。近代の象徴的な物の一つであるフランス人権宣言でもその対象として規定されてるのは市民権を持つ男性に限られていました。これは現代の社会で成人した男女に足して様々な権利が認められてる事から考えると非常に狭く正しくない範囲でしょう。しかしここから漏れてる人、たとえば子供や動物などについても成人男女と同等な権利を一部でも認めるべきなのではないでしょうか?こういう議論も近年では活発になっていきます。興味ある人は正義論について学んでみてください。

*3:話は変わりますが、「ありす」という名前は個人的にはすごくいい名前だと思います。まずこの名前を選ぶ上で考慮されたのは欧米圏の人間からの発音のしやすさでしょう。ロンドンでうまれた僕の高校の知り合いもそうでしたが海外で産まれたりそういう環境にいる場合は外国人からの発音のしやすさも名前を選ぶ上での大きな要素になるそうです。橘ありすさんの両親はバリバリのエリートサラリーマンって感じがしますしワンチャン外資勤務でしょう。仕事で外国人と付き合う事はよくあるし子供に対してもそういう場所で活躍して欲しいと思うのは当然の感情じゃないでしょうか。また「ありす」という名前の絶妙な魅力は日本人にも欧米圏の人にもなじみがあることです。実際に有栖川という地名や苗字は存在しますし、意外と「ありす」という言葉は日本語から浮いてるわけではありません。また欧米圏でも「Alice」と言ったら知名度の高い名前でしょう。そんなわけでぼくはこの名前がすごく好きです。またここからはうまく言えませんが本人の芯の強さみたいなのが響きにうまく出てる気もします。

*4:厳密に言うと理論自体の難しさ以上にそれを論じてる人が書く文章が無駄に難しいというのもあります

*5:というか物理学というのはある意味近似によって成り立っています。例えば重さを量ろうってなった時にも本当に正確な値を求める事は不可能ですし求める必要もないのです(例えば50kgと50.0000000000001kgの間にどれだけの差があるのでしょうか?そこまで厳密にする意味がありません。)。